不破為信親子二代の業績
手 術 絵 図 見 本
(絵図の原寸は38.5p×27.5p)
三嶋廉斎・乳癌記録絵図
廉斎・下唇膿血の記録絵図
息子杏斎・頚部腫瘤摘出記録絵図
(a)医師不破為信親子について
(1)華岡青洲の高弟として手術を学んだ不破為信廉斎
医師不破為信廉斎(旧姓三嶋良策)は、文化2年(1805)に美濃国羽栗郡不破一色村(現・羽島市正木町不破一色)で誕生した。奇しくもこの翌年には、廉斎の生涯の師となる華岡青洲が、世界で初めて全身麻酔による乳癌の摘出に成功した年にあたる。
華岡青洲は、宝暦10年(1760)10月23日に紀州(現・和歌山県那賀町上名手)の紀の川に面し、南方に高野山を望む静閑な地で、医家の長兄として誕生した。
天明2年(1782)、23歳で京都の吉益南涯(吉益東洞の子)に師仕して漢方(古医方)を学び、外科を大和見立に、さらにカスバル流外科を伊良子道牛について約3年間学んだ。この頃、ハイステル外科書(長崎出島から日本に伝わって間もない時期)の中の「截乳癌図」を見て、西洋では「乳癌の摘出術」を行っていることを知った。
当時の日本では、古くから「女性の急所は乳房にあり、乳房を切ると死ぬ」という伝承があり、乳房は誰も手をつけない「手術適応外」の臓器であった。しかし、青洲は京都に遊学する前に、紀州で父直道(2代随賢)の下で診察の折、牛の角で乳房を突き刺され、化膿した乳房を切開排膿し、一部切除した経験をもっていた。
この頃の青洲は、まだ幼名の震と呼ばれていたが、この大変な苦痛に耐える患婦の手術を見ていて「何とか、患者の苦痛をやわらげる方法はないものか」と考えたと伝えられている。若い青洲は、そこで父の書物を読み漁っているうちに、中国の外科医華陀が麻沸散を使って全身麻酔をし、外科手術を行ったということを文献で知ったという。
青洲は、やがてこの方法が如何なるものなのかを知るために、京都へ修学に出ることになった。京都では、吉益南涯に内科を、大和見立に外科を学び、中国の外科医・華佗の全身麻酔法を学ぼうとたが、手術の苦痛をやわらげる方法を知る先人とは出会えなかった。しかし、京都での遊学中に、ある整骨医(現在の理学療法師か整体師)が、マンダラゲやトリカブトの抽出液を使い、その麻酔作用を利用して治療をしていることを知った。しかし、実際の治療に使えるほど 安定した薬功にはほど遠く、副作用も強い事を知った青洲には、このことがヒントとなり、紀州へ帰郷後は研究と実験を繰り返し、試行錯誤すること20余年を費やし、ようやく麻酔薬「通仙散」を作り上げることに成功したといわれている。この「通仙散」を作り上げるまでの過程については、有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』や上山 英明・和歌山県立医大 名誉教授著作の「華岡青洲先生 その業績とひととなり」にも詳しく書かれている。
青洲の日本最初の全身麻酔による乳癌摘出術の成功は、世界の全身麻酔手術に先駆けること約50年も前のことでもあったが、鎖国時代の日本での発見であったため、世界的には、其の事実を知られておらず、正しい評価を受けていないのは、残念である。
青洲46歳の文化2年(1805)10月13日に全身麻酔による乳癌摘出術の金字答を打ち立てた。その後も青洲は、乳癌手術だけにとどまらず、それまでタブーとされていた外科手術、兎唇(口唇口蓋裂)、骨折整復術、骨癌、脱痘などを、麻酔を使って手術をする先鞭をつけた。こうして青洲は、当時の医学界で一躍『紀州に麻酔手術の青洲あり』と知られるようになった。
青洲は、麻酔手術の成功後も紀州で「春林軒」を開業していたが、末弟の鹿城(青洲の第4弟)も通仙散による全身麻酔術を会得し、大阪中之島で「合水堂医院」を建て、青洲と同様に弟子をとって開業していた。青洲、鹿城の兄弟には、華岡流外科術を学ぶ門人が、前後合わせて約1,800人もあったといわれている。
美濃国羽栗郡不破一色(現・岐阜県羽島市正木町不破一色)の不破家から最初にこの華岡流外科術を学んだ人は、不破廉斎では無く、叔父の瓊(けい)(廉斎の父 迪翁の末弟。成人後に名古屋の医家佐藤家に入婿し佐藤圓仲と名乗る)という人であった。圓仲は、文化6年(1809)3月10日に鹿城の大坂「合水堂」に入門している。この圓仲の合水堂への入門にあたっては、次のようなエピソードも語りつがれている。(不破家系図を参照)
圓仲が合水堂に入門する約1カ月前の文化6年2月2日のこと、不破一色村の文八内(文八の妻)が、紀州春林軒において乳癌の摘出手術を受けていた。
(このことは青洲の「乳癌姓名録」の第19番目の症例としてに記載されている。この文八の妻の乳癌手術症例は、圓仲の甥の廉斎が19歳で春林軒に入門した時に、この文八の妻手術絵図を模写し、現在不破家に伝蔵されている。こうした模写手術絵図は、当時の春林軒の聖書(教科書)を正確に写したもので、手術手順や、興味か親しみがあったのか、廉斎の出身地の美濃、安八などの、近隣の人々の手術絵図も描かれており、巻末に「文政六年三嶋良策謹写」とある。この「良策」は廉斎の幼名である)。
圓仲は、このような地元の患者の縁もあり、青洲が麻酔手術に成功してからわずか4年目の文化6年(1809)に合水堂へ入門したのではないかと伝承されている。(しかし、何故紀州の華岡青洲の処へ行かなかったのかは不明)
圓仲は、当時はまだ不破一色村の兄迪翁のところに身を寄せていたとみえて、合水堂門人録には「羽栗郡不破一色村、佐藤圓仲」と記載されている。また、不破一色村の文八妻が青洲のところで麻酔手術を受けていたことから推察すると、まず地元で圓仲が文八の妻が乳癌であると診断し、当時の医師仲間の勉強会や研究会で、青洲の全身麻酔手術成功の情報を知っていたので、遠く紀州の名手村の青洲の所へ紹介送致したのではなかろうかと想像できる。当時は医学情報に大変貪欲で、こうした全身麻酔の医学情報も参勤交代などが大きな役割を果たしていたといわれている。参勤交代に付き添って来る高名な侍医、藩医などの宿舎を地元の医師や本草学者が訪ね、また招待の席をもうけたりして、新しい医学情報を得ていたという事例も多々伝えられている。各地の本草学者、特に美濃近隣では、伊藤圭介、水谷豊文、飯沼慾斎なども江戸へ向かうシーボルトと懇親研究会を開いたといわれている。
圓仲は、こうした情報網によって青洲の乳癌手術の成功を知っていたため、文八を説得し、青洲に紹介状を認め、遠路200キロメートルも離れた紀州までも、文八の妻を送ったのではなかろうか。そして手術後は、無事に回復して戻ってきた文八の妻の乳癌手術の痕を見て、居ても立っても居られず、1カ月後に合水堂へ入門したのではないか、と想像される。
圓仲については、名古屋で開業し、人気の高い医者であったと伝えられているが、合水堂での修業年数や没年、墓所など詳細は現在不明である。
廉斎は、叔父の外科医・佐藤圓仲の医術を見ながら育ち、文政6年(1823)の19歳の時、父迪翁に申し出て、紀州の春林軒へ入門したといわれている。青洲が63歳の時で、華岡家の門人帳には「三嶋良策」と記載されている。この頃の不破家は、まだ旧姓の三嶋姓で呼ばれていた。廉斎は嘉永2年(1849)からは不破姓へと改姓している。
この改姓については、笠松代官所の改姓許可状に「元来、竹ケ鼻城主の不破源六友綱(廣綱)の血筋を受け継ぐ由、三嶋姓から不破姓に還ってよし」となっている。
このため、嘉永2年(1849)以降の不破家に伝蔵する手術図絵などは、すべて不破為信、または不破柏斎など、不破姓で記されている。
廉斎は、紀州春林軒で2年間修学し、卒業記念旅行をした後、帰郷している。彼が、この卒業記念旅行をした時に書いた『熊野道中雑記』には、同行した伊予吉田の小川寿仙(文政6年11月6日に春林軒に廉斎と相前後して入門した友人)と2人で、文政8年9月10日から同10月14日までの約1カ月間にわたり和歌山、有田、田辺、熊野へ旅行したことが丹念に書かれている。また、文政4年5月24日に春林軒に入門した京都御池の高階枳園(1774〜1844・名は経宣)は後に京都御所の侍医となり、徒四位上安芸守に叙任された医師であった。この人とは、春林軒で、執事(門弟筆頭)も勤めた仲であった。彼とはともに華岡流外科術を学んだ友人であったので、「互いに吾が子は、自分で養育することは難しいので、もし将来男児が生まれた時は、君の家で修練を頼む」と約束をした間柄であったと伝えられている。
ある時、三嶋良策と高階経宣とが青洲の許へ呼ばれ、青洲から『京都禁裏で侍医を募集しているから行かないか』という話を聞かされたことがあったという。この時、良策は「田舎には老父があり、私を待っています。ぜひ高階様に行っていただくように…」といって席を譲ったという。
廉斎は、文政8年(182S)10月、21歳の時に修学を終え、春林軒から不破一色村へ帰郷している。父・迪翁 55歳の時で、廉斎の帰郷を大変喜び、その後は医業もほとんど息子に任せ、自分は趣味の天文暦数、歴史、彫刻、刺繍などをして過ごしたという。
また、父迪翁は、漢方医であり、不破家に残っている広瀬米山画の為信君可迪翁遺像に
国手ノ盛名此翁二属ス
天文暦数神通二似タリ
起死回生ハ尋常ノ事
収メ尽クス乾坤方寸ノ中
と笠松の漢学者・角田錦江が讃を付けた軸が残されている。天保3年(1832)63歳で没している。
法名は真明院迪翁道啓居士 という。
廉斎の手術図絵は、安政6年(1859)に隠居・引退し、息子の杏斎に医業を譲るまでの約34年間に、再手術も含め54例の手術絵図を残している。廉斎は、万延元年(1860)盛夏8月14日に五十六歳で没している。
法名は歓正院廉斎道喜居士という。
ー廉斎の辞世の句ー
曇りなく今や真如の月さへて
明るき死出の旅ぞ楽しき
(2)高階安芸守経宣に医術を学んだ不破為信杏斎
不破為信杏斎は、幼名を父・廉斎と同じく「良策」と称した。文政12年(1829)12月7日に誕生し、明治32年(1899)5月13日に69歳で没した医師である。杏斎は、幼少のころから父廉斎の華岡流外科手術を見て育ち、15歳から父の外科手術の助手となり手伝ったという。
杏斎の若い頃の逸話として、次のような話が伝えられている。
ある夏の日、笠松の患者の家から父廉斎の許へ「膝が化膿し、腫れあがり、どうしても治療に行くこともできませんので、往診をお願いします」という中間の伝言と手紙が届けられたことがあった。この患者は、父・廉斎がすでに診たことのある、膝関節部の膿瘍(化膿性関節炎)の患者であった。廉斎は、多忙でもあり、息子の良策(杏斎)の試練とも思い、良策に治療法を告げ、自分の代りに診察に行く様に指示した。良策は、まだ前髪をつけた幼顔の残る15歳の少年であった。往診に訪れた良策を見た患者の家族は、当然父親の廉斎が往診に来てくれるものとばかり思っていたため、「お父さまは、後で来られるのですか?」と聞いた。良策は、動ずるようすもなく『父から、私が代わりに手術をしてくるようにといわれて来ました』と告げた。家族一同は、お互いに顔を見合せて驚き、不安気な様子であった。しかし、当家の主である患者自身は、すでに良策とは顔見知りでもあり、「親先生が指し遣わされたのなら、さぞご立派な腕をお持ちじゃろう。よろしくお願いします」と良策に手術を任せた。家族は、押し黙ったままであったが、良策は落ちついて手際よく手術の準備をはじめた。手術道具を揃え、手洗い桶を用意させ、白布を敷き、焼酎で患部を消毒すると、患部の膝へスパッとメスを差し込んで切開した。そして、ものの10分ほどでテキパキと化膿部分の手当てを終えた。近くで固唾を飲んで見ていた家族は、「この少年がどうして?」という顔で、またその手際良さに眼を見張っていたということである。この逸話は、不破家では、為信の偉大さを語る話として、今日まで語り伝えられてきている。
良策は、このように昼間は父・簾斎の医業の手伝いや入院患者の回診をし、夜は中国の医学書『傷寒論』(張仲景)などを読み耽り、医学の勉強に勤しんだという。その勤勉さは、父廉斎が、連夜の読書に耽る良策が、ついに「兎眼の如く」目を赤くしていたため『目をいためるから 勉強もほどほどにするように・・・』といって、夜間の読書を禁ずるほどであったという。
良策は21歳になると、父・廉斎の同朋であった京都の高階経宣の許へ入門した。父・廉斎は、若い時に経宣と約束(前述)したとおり、自分の息子を修学に出したのであった。
経宣は、入門してきた良策を見るや、「華岡流手術に関しては、今更もう何も教えることはないようだ」と思うと、主に外科医としての心得などを教えることに努めたという。このことは、経宣も春林軒で青洲から熱心に教えられてきたことであった。
青洲が「座右の銘」としていた『内外合一、活物窮理』の教えは、「外科ヲ志ス者ハ、先ズ内科二精通セザルベカラズ。苟モ之ヲ審ラカニシテ之ガ治方ヲ施サバ、外科二於イテ間然アルナシ(間然は、欠点を指摘して非難すること)。内外ヲ審査シ、始メテ刀ヲ下スベキモノナリ(中略)。故二我ガ術ハ治ヲ活物二考へ、法ヲ窮理(真理をきわめること)ニ出スト言ウニ在り。人身ノ道理ヲ格知(よく知ること)シテ後、疾病ヲ審スルニアラザレバ、即チ極致二至ルコト能ハズ。夫レ夫々ノ道、本ウハ活物ナリ。糊塗(いいかげんにしてごまかすこと)ヲ以テ推ストキハ、共ノ理二反ムカザルモノ稀ナリ。察セズンバ、アルベカラズ」と、青洲が患者に接する時の心構えなどを教えることに努め、技術的なことは余り教えなかったといわれている。
なお青洲の上の思想を要約すると、「医学には、内科も外科も無く、一方に拘泥し、肝心の患者に対する最も大切な、適切な治療を選択しないのは愚かなことであり、治療に必要なら、和・漢・洋のあらゆる知見を駆使して治療に当たれ。治療の対象は「人」であるから、人にはそれぞれの個性があり、特質を異にするから、まずこれを念頭において、最も適切にして、合理的な治療法を施行せよ」という意ではなかろうか。青洲はこのようなことから、漢方と蘭方の「折衷派の医師」ともいわれている。
経宣は、良策にこのように華岡青洲の医学哲学や医の倫理観を懇切丁寧に説いて教えたと伝えられている。この教えは、また父廉斎が春林軒で修学を終え帰郷する際に、青洲に乞うて授かった 三嶋為信への為書きのある華岡青洲像の讃(青洲自筆の讃)にも、
竹屋粛然烏雀かまびすし
風光自適寒村に臥す
唯思う起死回生の術
何ぞ望まん軽裘肥馬の門
とあり、この青洲の教えを廉斎自らがを終生守って生き抜いたと伝えられている。
ここで、良策が長じて不破為信杏斎と名乗ってからの逸話を一つ紹介しておこう。
美濃国葉栗郡不破一色村の不破為信杏斎の外科術の評判が、大垣の戸田藩主の耳にも入るなど、広く知られるようになっていた時のことである。
大垣の戸田藩(当時の藩主は戸田氏共)では、藩医(御典医)を選考するに、内科医は大垣・藤江町の江馬蘭斎の孫に当たる江馬活堂、外科医は不破杏斎を登用することに内定し、御使者の家老小原鉄心が、不破杏斎の家を訪れたという。小原鉄心は、三顧の礼を尽くして頼んだが、杏斎は「父の師・華岡随賢青洲先生も、紀州徳川家より藩医登用の命を受けられたが、固辞された、と父・廉斎から聞いていたこと」や、「高階経宣からの教え」などが脳裏に深く刻まれていたので、「医は仁術也、仁を以て郷民を救はむ」といって藩医登用は断り、不破一色村から出ようとはせず、地域住民の医療に尽くしたという。
良策は、21歳の時に京都の高階経宣の許へ遊学し、2年後の嘉永5年(1852)に不破一色村へ帰村している。その後は父・廉斎の医業を助けながら、乳癌や婦人科領域の子宮脱、陰のう水腫、頚部腫瘤、口唇口蓋裂(鉄唇と記入)、両足切断術、舌癌手術などをした。
これらの手術には、青洲や父・廉斎の手術法はさることながら、自分で開発した各種外科術(乳癌にともなう腋窩リンパ節郭清術など)も施行していた。産科は、賀川流を得意としていた。また、種痘は、嘉永2年(1849)に福井藩医・笠原良策(白翁)がオランダ経由の痘痂による痘苗を福井に持ち帰り、広めていた事を知り、杏斎は、この種痘法を習得するため笠原白翁のもとに入門して、其の技法を学んでいたいた。明治5年(1872)3月19日のに白翁門人録『入門醫員録』に「葉栗郡不破一色村 不破為信」の名が記載されている。また当時の医師の種痘資格試験問題集と思われる『引痘策問十五条』も不破家に残っている。 これは美濃の地でいち早く種痘を杏斎が展開していた資料でもある。
杏斎は、性格は清廉謹厳、神仏を深く敬い、父母ヘの孝養の念の厚い人であった。趣味としては刀剣を愛し、歴史、天文学、囲碁、漢詩文、茶道(松尾流を極める)、煎茶道、江戸末文人の頼 山陽なども好んで弾いた龍琴などを能くした。また不破家には、神奈川の画家 二世・五姓田芳柳(1827〜1892)の描いた杏斎の遺影(肖像画)が現存している。
不破為信杏斎は明治32年(1899)5月13日、71歳で没している。
法名は大信院仁翁義道杏斎居士という。
---------辞世の詩--------
身を仏陀に託して百思空し 嘆ぜず両眼既に朦朧たるを
今より全て免る辛酸の苦 坐して荷香馥郁の中にあり
(3)不破為信廉斎・不破為信杏斎親子二代の業績
華岡青洲の門下生は、『華岡青洲先生及び其外科』(呉 秀三著)の「門人録」によれば、総勢1.887名(弟の大阪合水堂の鹿城の門下生も含む)の多きにわたっている。呉 秀三によれば、春林軒の門人の第一号は、天明8年(1788)に人門した中川修亭と言う医師で、青洲が「通仙散」を発明するまでの手助けをした人という。この人は、青洲が麻酔を使って乳痛手術に成功するまで 何年も助手を務めていたという。次に呉 秀三氏の目にとまった門人をとりあげると、次のような門人が出ている。まず本間玄調がいる。彼は文政10年に入門した水戸藩出身の人である。江戸で杉田玄白に西洋医学を学び、後に長崎でシーボルトに直接オランダ医学を学んだ人である。30歳の時に青洲の弟子となり、江戸で開業し、青洲の活物窮理の思想を広めたといわれている。また「瘍料秘録」・「続瘍料秘録」などを著作し、華岡柳医学を一般に広めたことでも知られている。しかし、このことは、青洲自身が春林軒の家塾掟に「伝授書、家伝の秘方、秘術は他門の人猥に伝える事、尚更堅く慎むべき事」として禁止していたことに違反することでもあったと思われる。青洲は自分が発明した全身麻酔を「見様見真似で技術を広めると、麻酔が死に至らしめる危険な方法であるため、あまり修熟していない医師には真似をして欲しくない」という思いがあったためで、事実1.800余名もの多くの門人がその手術方を学んでいるにもかかわらず、その痕跡が全国でほとんど発見されていないという事実になっているのではないかと推察される。そして不破為信親子も、この春林軒の家塾掟を忠実に守ったため、その業績を世に知らせることなく、医学研究の記録(手術絵図)だけはひっそりと残していたと思われる。
昭和50年、杏斎から4世代後に、偶然古い箪笥の奥から荒縄で結ばれた131枚もの彩色された手術絵図等が発見された。平成8年6月16日付の朝日新聞にも掲載され、広く人々に美濃地方における華岡流手術のようすが公開された。
ここで余談となるが、本間玄調の先租に、本間道悦(1623〜1697)という人がいた。この人は大垣の戸田藩に仕え、天草の乱(1637)で幕府方の討伐軍として参戦し、戦傷を負ったといわれている。戦傷を負った後は、大垣から水戸の潮来に移り、寓居を構え、俳譜を楽しんでいたという。そして、松尾芭蕉が「奥の細道」の東北旅行をしていた時には、芭蕉と知己の仲となったという。このため、水戸の本間家には、芭蕉の遺墨が多数伝蔵されており、その子孫本間玄調もこのことを誇りとしていたということである。
次に鎌田玄臺(1794〜1854)がいる。彼は、伊予大洲の出身で、春林軒へは文化9年(1812)に入門した人である。四国一円にその盛名をなし、東の本間、西の鎌田と称賛されるほどの名医であったといわれている。
その他にも熱田玄庵(下総の人・大洲藩医)、館 玄龍(越中の人・北陸の華佗と称された人)、難波玄愿(備前の人・門弟1,5OO人を擁したという)、三村玄澄(名古屋の人・尾張藩医)、石坂桑亀(美作の人・足守藩医)などがいた。この他にも呉 秀三氏は、多数の青洲の門人を記しているが省略し、本文にもどろう。
不破為信廉斎は、文政8年(1825)に春林軒での修学を終えると、すぐに不破一色村へ帰っている。しかし、若干21歳の外科医であり、しばらくの間はなかなか乳癌の患者の訪れる事も無く、華岡流外科術を美濃で実施する機会もなく 田舎医者として過ごしていたようである。日頃多い外創や骨折患者を診ながら、細々と医療をしていたといわれる。たまたま乳癌の患者が現れても、手術を怖がって逃げて帰られ、腕を振るう機会もおとずれなかった。このことは、今日、廉斎が残した手術絵図を見ても、手術絵図の第1例目は開業してから丸1年たった文政9年(1826)3月20日の64歳の女性に施行したのが初めであることからも想像できる。その後は、毎年1年間に1例づつぐらい記録されており、文政13年(1830)には3例、晩年の安政4年(18S7)には6例、翌安政5年(1858・廉斎47歳〜48歳)には5例が施行された。この頃にやっと世の人々にも乳癌外科術が認められるようになった感がある。(3-(c) 不破為信・親子二代の華岡流彩色手術絵図全目録をご参照ください)
(4)不破家に残された手術絵図
廉斎の自筆の手術絵図は、生涯で下絵図も含め、55枚が残されている。このうち、理由はわからないが、第一症例で3枚、第三症例で2枚、第五症例で3枚、第二十症例で2枚、第二十一症例で3枚、第二十三症例で2枚と同じ手術絵図を複数回、画いている。明らかに下書きと思われる絵図もあるが、殆んど同じ絵と文章のもある。これらの絵図を見る限り、手術した「乳癌症例」全てと、廉斎にとって「興味深い症例」以外の手術症例を、「絵図」として残したのか、細々した手術症例は残さなかったのかは不明である。乳癌以外の絵図としては、
の七例が残されている。
万延元年に笹屋専治の妻(39歳)におこなった乳癌手術(多分、親子二人で共同で行なったと推定している)以後は、息子の杏斎が72例の手術絵図を描いている。そのうち慶応2年6月4日に行った手術絵図は、杏斎の実弟で愛知県半田市亀崎の間碕家に養子した間碕周治が描いたものである。
不破家に残された手術絵図は、総数が132枚である。内、廉斎のもの55枚(内、下書き7枚)、杏斎のもの72枚、間碕周治のもの1枚、不破益三郎(杏斎の3男)のもの1枚(これは父・杏斎が慶応二年に画いた、安八・氷取の幼児の絵図の写しである=年号・患者父名同一)、春林軒での模写と思われる奇病の絵図3枚などがある。
また、手術絵図の内、理由は分からないが、同一人物の手術絵図を描いたものが8例(合計20枚)、中には3回も描かれているものが3例、2回描かれているものも5例もあるので、「手術絵図総数」と「手術実数」とは合致していない。
疾患別に手術絵図を見てみると、
@乳癌・・・・・・・・・・・・・・・89例(内37例が廉斎)
A肉瘤・・・・・・・・・・・・・・・12例(内 1例が廉斎)
B膿血及び脱疽・・・・・・・・・・・・7例(内 3例が廉斎)
C兎唇(鉄唇と記載)・・・・・・・・・・6例
D子宮または卵巣のう腫逸脱・・・・・・1例(内 1例が廉斎)
Eヘルニア・・・・・・・・・・・・・・3例
F部位不明・・・・・・・・・・・・・・3例(内 3例が廉斎)
G春林軒での模写図・・・・・・・・・・3例
H手術絵図下絵または下書き・・・・・・8例
合計132例である。(手術絵図合計132例をご希望の方はお申し込み下さい----->申し込み方法)
これらの手術絵図は、いずれも病巣部を忠実に描いたものである。幼児の場合は、春林軒での青洲の教本通りに唐児様の様式で描かれている。股関節の手術絵図などは、青洲の教本通りの姿態で描いてあり、着物まで同じで実に忠実に師・青洲の教え通り、彩色で描いたものである。
また、これらの手術絵図は、現在の診察録(カルテ)に相通ずるところがある。その絵図には、
@居住する地名(州)
A居住する郡名
B氏名(真の名前または屋号の後に〇〇妻、または〇〇の母と書かれ、女性の名前は書かれていない)
C性別
D年齢.
E罹患期間(受診までの期間)
F病名
G麻沸湯または麻薬(通仙散とは書いてない)'
H手術執刀者名(廉斎は押印)
R絵図の内容.
イ、手術部位(乳房、頸部、額部の全体図)
ロ、執刀部位(切開方法)
ハ、摘出病変肉眼図(良性と悪性の区別をしている)
ニ、摘出病変の割面(良性病変に多い)′、
ホ、摘出病変の重量(単位は箋、1箋は3.73グラム)
へ、郭清した腋裔リンパ節の数と重量(リンパ節のことを「結核」と記載)
などが書かれている。
不破為信廉斎の絵図は、直筆と思われるが、不破為信杏斎の時代のものは、本人直筆のものとは明らかに異なる筆遣いのものも数多く見られる。弟子などが描いたものなのか否かは不明である。なお、廉斎が亡くなる前後の万延元年の2症例は、廉斎の押印があるが、廉斎の直筆とは異なるものもあり、その真意は不明である。
乳癌手術97例の年齢分布は、15歳から68歳までで、平均年齢は44歳である。
乳癌手術の内、再手術例は、廉斎が1例、杏斎が4例ある。3回手術の例も杏斎の2例がある.また、再手術をするまでの期間は、3カ月から3年後までの例がある。3回手術した症例は、9カ月間に3回したものと、5カ年間に3回したもの2例である。乳癌手術97例の年齢分布は「親子二代の華岡流彩色手術絵図全目録」としてまとめている。
不破家のこれらの手術絵例などのことは、最初は昭和54年4月3日に青木一郎氏が地方版の岐阜日日新聞に『華岡青洲門下に不破為信』と題して、手術道具や青洲関係資料を発表した。それから17年後の平成8年6月16日付けの朝日新聞の一面トップや平成8年7月7日付けの読売新聞の文化欄などで大々的に報道もされて、更に1995年(平成7年)4月に名古屋市で行なわれた第24回日本医学会総会で名古屋大学医学部附属病院・医療情報学部教授・山内一信氏(日本医史学会員)の企画展示の資料として展示発表されたり、そのの時の展示図録の「尾張から見た日本と世界の医学史」の展示図録中にもある。「日医ニュース」(平成11年3月20日)や「岐阜県医ニュース」(平成8年9月1日)や新制岐阜県医師会創立50周年(平成9年11月1日)にも「不破為信廉斎・杏斎の業績」として展示発表した。また翌年の平成10年3月1日から5月10日まで地元の羽島市歴史民俗資料館にて「美濃において華岡流手術を展開した「不破為信親子二代展」を行なったりしているが、こうした色々な場所やマスメディアを通じての発表にもかかわらず、華岡流外科術の新たな記録が発見されたというような情報は無いようである。
呉 秀三氏の著書の中では、三嶋良策の名前は「門人録」以外には見られない。しかし、不破為信廉斎、杏斎の親子は、華岡青洲から学んだ医帥としての生き方、思想、高度な技術や、青洲が残した『治験録』による手術絵図の描写法などを忠実に受け継ぎ、美濃の地でひっそり記録を残していたとおもわれる。先に列挙した青洲の高弟の本間玄調なども、こうした青洲から伝授された教えを、受け継ぎ、塾を開いたり、日常の診療や手術技法や著書として残していたとおもわれる。ただ、不破為信廉斎、杏歳の親子は、軽装肥馬の門を断り、ひたすら地域医療に専念する中で、一般庶民に華岡流外科術を普遍化していた功績は見逃せないことであろう。惜しむらくは、後年になって不破家から発見されたこれらの彩色手術絵図などを、呉 秀三氏の眼に触ることが無かったことである。
(5)インフォームドコンセントの記録も残していた廉斎・杏斎
今日では、医師と患者とのインフォームド・コンセンを満たす要件として、日本医師会では1990年に次の5点をあげている。
@ 名と病気の状況の説明
A治療の方法と説明
@ 治療の危険度
A その他考えられる治療法と利得失
D病気に対する将来予測
不破為信廉斎には、彼がすでにこのインフォームド・コンセントの条件をかなり満たす医療を探究していたと思われる「記録」も発見されている。患者に、手術の危険度や将来予測などを説明していたと思われる資料で、文脈は次の8点からなっている。
@病名の告知(進行癌であることを家人に説明)
A従来の医療では治せないという説明(進行癌に対して針灸はもとより、日本
でも中国でも治せる術策がない。これを治すというものがあれば、それは偽者
であり、そんな者に身を任せることは、あたかも、目の不自由な人が目の見え
ない馬に乗って、深夜に深い池の辺りへ行くくらい危険で無益なことだ)
B自分の恩師の華岡青洲の偉大さと、その外科術の優れていることの宣伝(自
分は華岡青洲の門人で、そこで勉強をしてきたという権威付けのようなこと)
病状の説明(再度、手術をしても助からない進行癌であり、必ず再発する恐
れがあり、自然の勢いで防ぎようがない…云々)
C 自己謙遜(たまたま再発しなかったとしても、患者の幸運であって、医者
の手柄ではない‥・・・生体治癒カ)
E開き直り(手術後再発すると医療がいたらなかったせいにするものがある)
D 手術への説得(治療をしないと精神的に弱って落ち込んでしまう。何もし
ないで死を待つのと、あらゆる手を尽くして天命を待つのとどっちがよいの
だろう)
E 廉斎本人の意志(私は、華岡青洲の門人で、昼も夜も先生と親しくして医術
を身につけてきた。自分の発見ではないが麻酔を使ってこの患者を治療し、例え
再発しても自分の罪ではないと話した)自分を信じろ・・・と言う自己弁明。
以上のような記録を、廉斎は残している。
江戸時代の当時としては、全身麻酔をかけて乳癌手術をするというようなことは超時代的なこと、一般の人々に受け入れられるにはあまりにも情報が少ない時代であり、信頼されるまでの苦節の一定期間が必要であった時代であったであろうことが想像される。
不破為信廉斎は、何故か同一の上の「文書」を5枚遺している。息子や弟子に描き方を教えるためだったのか、患者家族から苦情を言われて裁判になるのを予測して、訴訟に備えたのかどうか、その真意は不明である。
杏斎のインフォームド・コンセントの例
〜再発すれば生死の保証はできないと告げる〜
次に門玲子氏が訳文された杏斎のインフォームド・コンセントの記録を紹介したい。
「本文の訳」
濃州(美濃国)の笠松に住む笹谷専治という者の妻は35歳、数年間乳がんを患っているので私にこれを治してほしいと頼んだ。診察してみると脈は弱く少なく、寝ても覚めても汗をかく。がんを観察してみると、小さなクラゲほどで、病巣は周囲に広がり、胸骨に付着している。病巣の中央に小さな穴があって、絶えず膿が出て臭いは鼻をつく。また、腋の下にも腫瘍の魂がある。大きい物は卵ほど、小さい物はくるみほどの大きさで重なりあって(6字欠落)3、4個になっている。患者に治らないと言い聞かせた(1字欠落)。私は言った。「病巣が広がっているから毒もあちこちにまわっているだろう。しかも、腋の下にもすでに塊がある。これも摘出しないと、すぐにまた再発し、年内に転移するだろう。腋の下の魂をとったとしても、再発すれば、生死は全く保証できない。いわゆる危篤の状態だ」こうしたことから、手術を強く辞退したが、患者と親族が決死の覚悟で頼み込み、その場を去ろうとはしない。悲しみ嘆く様子を見ていられず、やっと手術を承諾した。実に万延元年秋9月4日のことだ。(以上 門玲子氏の訳文)
と、杏斎は患者との記録を残している。
(6)不破家のインフォームドコンセント(補追)
(この文章は 岐阜県医師会創立50周年記念展として
「不破為信廉斎・杏斎の業績展」 の時発表したものである)
1、はじめに
朝日新聞(H8.6.10)紙上で発表された『不破為信親子2代の江戸期におけるインフオームド・コンセント』以外に、この度、資料の再整理を行ったところ新しい資料が発見されたので、改めて明治期に書かれた『手術同意書』も含めて、岐阜県医師会創立50周年記念誌発行に合わせて発表した。
2.万延元年のインフオームド・コンセント
万延元年(1860年)庚申秋9月5日、濃洲笠松(羽島郡笠松町)の笹屋専治の妻35才が受珍。時に杏斎31才。杏斎が眼にした病婦の乳癌はかなり進行していて、腐膿汁が鼻をつき、かなりひどい状態であった。
その時父廉斎は病床にあったか、元気であったかは不明であるが、翌月の10月23日に没している。死の直前、端座して辞世の書を遺しているが、いずれにしても杏斎は父・廉斎に手術の可否を相談したと思われる。杏斎が、笹屋専治の妻の乳癌を摘出した際の文章と杏斎の絵図が、1996年6月16日付朝日新聞に掲載されたものである。
ここで杏斎が書いた『インフォームド・コンセント』と思われる文章は別にして、手術絵図を詳しく見てみると、杏斎手術絵図には、「腋窩リンパ節」と思われる「結核惣目20戔余」(1戔は3.73g)と記載されているが、腋窩切開の部分は描いていない。父・廉斎の描いた同一人物(笹屋専治の妻)の廉斎の手術絵図も遺されている(今まで未発表)。廉斎の本文には定型的な住所・氏名・手術日は書かれているが、不思議なことに、一切のインフォームド・コンセントと思われる文章はない。ただし、手術絵図には、左腋窩腋高部を切開した執刀図が記入してあり、末尾に不破為信の著名の下に捺印までしてある。
乳癌摘出量に関しても、息子・杏斎には乳癌全量目方78戔、腋窩切口5寸余、結核惣目20余戔となっているのに、父・廉斎の方は『乳癌略圖量25戔腋高、腋窩核、合量25腋窩微餘』として、4塊の結核と大きく乳癌を1塊として描いている(子・杏斎は、絵図上では乳癌1塊・腋窩結核5塊)。
3. 2枚の絵図の違いについて
上の2枚の絵図の違いは歴然としている。一見して息子の方がインフォームド.コンセントと思われる文章を主軸にして、絵図の方も丁寧に描いている。父・廉斎の方は、文章は定型的で、手術図に腋窩部の切開口をきちんと描いているが、息子の方にはない。父・廉斎の手術絵図は全体に筆に力みがなく、おだやかな筆勢である。癌の総量も違う。しかも父・廉斎は、息子に跡を託して引退したのが前年の安政6年(1859年)なので、結果的にではあるが自分が死ぬ1ヵ月半前に、彼が手術図として遺した「最後の1枚」である。
息子が描いた手術絵図を父・廉斎が見て、その後に自身でわざわざ筆を執って描いたのかどうか、その前後関係はわからない。
推察するに、父としては息子が病家の懇求に胸打たれ、手術をするかどうか悩みながらも断わり切れず、通常は手術不能例に対して、手術の決断をしたことに対して、息子の『心の優しさ』を解しながらも、外科医が坐右の銘とする『鬼手仏心』は良いが、“優しさだけでは駄目だぞ・・”という意味を込めて、「手術絵図はこうあるべき」と自らが筆を執って、別個に腋窩切除部位を加筆し、乳房も腐膿している部分に『左乳三寸二分、此処腐潰』と附記し、子・杏斎の絵図とは違って、紫炭色をもって腐潰部を強調して描いたのではないかと思われる。簡略ながら、手術絵図としてはよりリアルである。
これを父が子に贈る最後の『愛情』とみるか、外科医としての『注意喚起』とみるかは別として、いずれにしても同一患者の手術絵図が、父と子によって別々に残された事実を改めて呈示しておきたい。
4.父廉斎の謎の文章
廉斎は、天保10年(1839年・34才の時)5月22日に執刀した文章だけのの乳癌手術録を残している。
この手術絵図のない文章は謎に満ちている。同文章が整理の過程であちこちから計5枚発見された。これも不思議だが、文章に至っては解釈が難解であり、文脈は次の8点からなっていると思われる。
(1)病名の告知(進行癌であることを家人に説明)
(2)従来の医療では治せないという説明(進行乳癌に対して、針灸はもとより、日本でも中国でも治せる術策がない。これを『治す』というものがあれば、それは偽者であり、そんな者に身をまかせることは、あたかも、目の不自由な人が目のみえない馬に乗って、深夜に深い池の辺(ほとり)へ行くくらい危険で無益なことだ)
(3)自分の恩師の華岡青洲の偉大さと、その外科術の優れていることの宣伝(・・・・・自分は華岡門人で、そこで勉強して来・・・・・という権威付け)
(4)病状の説明(再度、手術しても助からない進行癌であり、必ず再発の恐れがあり、自然の勢いで防ぎようがない・・・・・・云々)
(5)自己謙遜(たまたま再発しなかったとしても、患者の幸運であって、医者の手柄ではない・・・・・生体治癒力)
(6)開き直り(手術後再発すると医療がいたらなかったせいにする者がいる)
(7)手術への説得(治療をしないと精神的に弱って落ち込んでしまう。何もしないで死を待つのと、全ゆる手を尽くして天命を待っのとどっちがよいだろうか)
(8)廉斎本人の意志(私は、華岡青洲の門人で、昼も夜も先生と親しくして医術を身につけてきた。自分の発見ではないが麻酔を使ってこの患者を治療し、例え再発しても自分の罪ではないと話した。(自分を信じろ・・・・・という強い決 意と意志表明、そして結果については天命であり、死んでも自分の責任ではない・・・・・という自己弁明)
以上より考察すると、廉斎は紀州・華岡春林軒で修練してきて、全身麻酔下での乳癌摘出術するに当たって、世の人々の信頼を得るのに大変な苦労をしていたことが推測できる。当時の医学、医療の最先端の技術を施行するに当たって、2つの苦労した例を挙げてみたい。
−ジェンナーの種痘法の日本への伝播と普及−
イギリスの外科医ジェンナー(1749〜1825年)が種痘法を発見したのは、“牛の種痘に罹患した婦人は人の天然痘に罹らない”というところからヒントを得て、牛痘を『種(親株)』とした種痘を、8才の少年に施行して善感(感染免疫形成)させたのが1796年であったことは世に知れ渡っている。(ちなみに華岡青洲乳癌手術法を初め、ジェンナー種痘法が世に普及するまでには、幾多の困難や誤解があった。“種痘を受けると腕から角が出る”とか“将来子供が牛になってしまう”などの風聞が、まことしやかに挿絵入りで西欧の雑誌に掲載されたりもした。しかし、種痘の成功で天然痘が地域で激減すると、そうした悪意に満ちた風聞も霧散し、競って種痘法が西欧各地に拡がっていった。この間、ジンナーの種痘の成功から25年の期間を要している。
―蘭方医学の日本での普及―
江馬蘭斎は大垣藩医ながら、46歳の時(寛政元年・1788年)大垣をたって江戸に向かい、前野良沢、杉田玄白等17人に混じって、今迄の漢方医学を捨て、蘭学を研鑚した。(青木一郎著『岐阜県近世医学史』P24〜P30に詳しい)。この時の仲間の寄せ書きと、オランダ正月を祝う江戸の蘭方医たちの『芝蘭堂新元会図』(早稲田大学図書館蔵)にその姿を目にすることが出来る。
岐阜県を代表する蘭学者である彼は、寛政7年(1795年)に大垣に帰り、すぐ蘭学塾『好蘭堂』を大垣の藤江町に開いた。閉塾する明治17年前までの間に331名の塾生が育ち、現在もその子孫が岐阜県医師会にも多数おられる。しかし蘭斎は『蘭方医・切支丹乱暴医・バテレンの徒』と、漢方医はもとより一般庶民からも悪口を言われて、一向に患者の来ない悶々とした日々を2年間も送っていた。
彼を一躍有名にしたのは、寛政10年(1798年)1月31日、西本願寺の大垣末寺『縁覚寺』より、西本願寺十八世法主・文如上人が足の浮腫を伴う疾患に羅患し、重症になり、侍医や門徒代表も困惑していたところ、近江国(滋賀県)の門徒の一人より「大垣に蘭方医の江馬蘭斎なるものあり」と知らされ、藁をも縋る気持ちで「診せるだけ診せよう…」ということになり、前記の縁覚寺を通じて往診依頼が来たと言う。
お籠付きで京都まで往診し、蘭方医学によってめでたく快癒したため、莫大な報償金(白銀百枚、羽二重百疋、道中雑用金二十両)を支給されたため、医名とみに上がってから繁盛しはじめた…という経緯がある。
当時の漢方医のレベルは、相当低い者から高い者まで色々であったが、研究熱心な医師は先程の種痘の一件をみてもわかる様に、むさぼる様に新しい知見を求め、全ゆる手づるを使って相互に情報交換したり、藩主の参勤交代の侍医との宿泊所での歓談を通して、最新のオランダ医学の情報を得たりしていた。
飯沼慾斎、伊藤圭介、水谷豊文、山本亡羊、小森玄良、坪井信道等名前を挙げたらきりがない程多勢いる(青木一郎著『目で観る近世岐阜県医療史』『大垣藩の洋医江馬元齢』『岐阜県蘭学史話』『岐阜県近世医学史』等に詳しい)。
こうした時期に、全身麻酔をかけて乳癌手術をするという当時としては、世の常識をくつがえす、超時代的な医術が江戸時代一般の人々に受け入れられるには、あまりに情報が少なく、多くの苦節の時代・期間が必要であったことを想像するのに難しくない。このために廉斎は、何枚もの謎めいた『インフォームドコンセント』の原型のような文書を残したのではないだろうか。
1990年に日本医師会は『インフォームドコンセント』を満たす要件として
@ 病名と病気の状況の説明
A治療の方法と説明
A 治療の危険度
B その他考えられる治療法と利得失
D病気に対する将来予測
の5点を挙げている。
この五要件の内、廉斎の文章について、名古屋大学医療情報学部教授であり、日本医史学会会員である山内一信氏は、『手術の危険度や将来予測なども説明している点でインフォームドコンセントの条件をかなり満たしており、当時手術は大変危険であったため、万一に備えて医師の責任をはっきりさせておく必要もあったのではないか』と述べておられるが同感である。
5.前記以外のインフォームドコンセント
―三嶋為信(後の不破為信)廉斎則明の例―
これも殆ど息子杏斎が残した第一例の文体と同じ型式で、息子杏斎の雛型となった文章型式と思われる。
・・・・・‥巨大癌物累連之証故(ゆえ)、諭強以(ゆして)難治、病家再三懇求するため不止(やむをえず)又(また)辞無道(ことわるすべもなく)嘉永七甲寅年秋九月二十五日(嘉永7年は安政元年・1854年)先与之麻薬而(まずはまやくをあたえて)療之(これを治療す)(廉斎五十二歳)となっている。
尚、杏斎の乳癌及びその他の手術絵図は、明治4年(1871年)6月(杏斎45歳)で終わっている。明治32年(1899年)69歳で没しているため、その間25年間医療を続けていたし、乳癌の手術をしていなかったわけではなかった。
明治6年、文部省医制上申書が出され、その中に『医師自ら薬をつくり、売ることを禁ずる』法令が出された。続いて明治7年に新政府による大政官令が出され、廃藩置県を初めとする色々の改革を行ったが、その中に『漢方医学廃止令』が出された。
東京東校は東京帝国大学に格上げされ、杏斎の末弟震吉は明治12年第1期生として卒業している。その後、東京大学出身の新世代の医師や法律家、政治家、文学者、科学者が全国に散って、東大は『配電盤』の役を果たし、全国各地に京都帝大や一校から八校まで創られ、次々と全国各地に医学部も併設されたが、大学卒の医師が出揃う迄に約10年余りがかかったため、過波的に「漢方医一代限り」と廃止令が改まり、以後も細々と手術をしていたことが、次の文書が発見されるに及んで判明した。
6.明治期の手術同意書と許諾証明書
従来迄のものは、医師側の一方的な『手術絵図の前文の中でのインフォームドコンセント』であったが、明治に入ってからは一変していることがわかる。明治期の手術同意書には印紙を貼り、割印がしてあることは、県令か郡長への届出証文であり、手術中又は術後のトラブル防止に際して、何等かの県からの指導があったことが考えられるが、現在のところ、県令からの「命令指導書」などの雛型は発見されていない。
明治になって、廃藩置県が行なわれ、一気に法令・県令からの指導などがが施行された。明治7年の「太政官令」以後、日本全国で大混乱に陥ったことなどは、歴史が証明しているが、意外に医療関係では、どのような法令が試行されたのか、はっきりしないようである。ただ、不破家に遺された資料によれば、『医療継続嘆願書』と言う地元の有力者からの署名・捺印入りの嘆願書が2冊見つかっている。又、地域の医師の連名による「嘆願書提出意思の有無」を調べた紙片や郡長宛てに提出したと思われる「履歴書」や為信杏斎惟治の弟の間碕周治正恭の「医術開業免許候事」(明治15年9月22日)の下書きや前述の『印紙・三名連名捺印付き手術同意書』や「出生届」や「死亡届」更に脚気患者の「御届」など急に許諾証明書などの文書が多くなっている。又 少しさかのぼるが、万延元年の「容躰書」もみつかっている。
明治期の手術同意書の文例は、昭和60年代まで日本全国の病院等で公然と外科系では『手術同意書』と称して、患者家族の了解を「念書」として確認する方法がまかり通っていた。平成に入ってから、時勢のインフォームドコンセントの要望に応える形で、日本医師会が雛型を作成し、現在では文切型の手術同書は無くなり、インフォームドコンセントが当然の世の中になっている。
今では文切型の手術同書の時代からすると、隔世の感があるが、いずれにしてもこの明治期初頭の手術同意書が約10枚出て来たことで、華岡流外科手術が明治20年頃迄は続いていた・・・・・と思われる。しかし、理由は分かっていないが、明治4年以降は一枚も手術絵図が残っていない。
以上、インフォームドコンセントについて、諸事例を挙げて紹介した。
以上 文責 日本医史学会員・不破 洋
7.参考文献
1.図説 日本の“医”の歴史 小池 猪一著 大空社
2.図説 日本医療文化史 宗田 一著 思文閣出版
3.図録 蘭学事始 杉本つとむ扁 早稲田大学出版部
4.医学誌担保卯 医学を変えた100人 二宮陸雄著 日経BP社
5.江戸女流文学の発見 門 玲子著 藤原書店
6.目で見る近世 岐阜県医学史 青木一朗著 西濃印刷株式会社
7.華岡青洲先生其外科 呉 秀 三著 吐鳳堂書店(大正十二年八月五日発行)
8.華岡青洲の妻 有吉佐和子著 新潮社
9.華岡青洲先生 その業績とひととなり 上山英明著 医聖・華岡青洲顕彰会発行
10.医聖・華岡青洲 医聖・華岡青洲顕彰会 発行パンフレット
11.近世日本医学と華岡青洲 和歌山市立博物館 発行
12.幕末諸州 最後の藩主たち 東日本編 人文社
13.家 KAMON 紋 石川県立歴史博物館 編
13.尾張から見た 日本と世界の医学史 第24回日本医学界総会「医学史展示」図録 総会記念事業会編
14.慾斎研究会だより 伊藤圭介、飯沼慾斎写真
15.美濃において華岡流手術を展開した 医師 不破為信親子二代展 羽島市歴史民俗資料館編
16.新制岐阜県医師会創立50周年記念誌 岐阜県医師会編
16.前田家御家録編纂 不破家譜 庶流附録 金沢・廣誓寺所蔵
17.金沢・不破家直系 不破 一氏 金沢・野田山墓地 不破家墳墓図 及び 家系図
18.不破家回想録 不破義信著 非売品(不破家用限定出版 品切れ)
20.日本医史学雑誌・四十二巻第一号六十一頁「不破家華岡流手術記録の検討」 山内一信著・不破 洋協賛